プロ野球に馴染みがない人も、「黒田博樹」という名前のプロ野球選手の名前を耳にしたことがあるのではないだろうか。昨シーズン、メジャー球団からの年俸21億円のオファーを断り、年俸4億円で古巣広島東洋カープに復帰したプロ野球選手である。今回は、全世界を驚かした男の生き方を紹介するので、ぜひとも人生の教訓にしていただきたい。
今まで数々の華々しい成績を残してきた黒田にも、もがき苦しんだ時代があった。それは、あまり知られていない高校時代。進学した地元大阪の名門上宮高校には当時、元巨人の元木選手を含めその後プロ野球で活躍した選手が多数所属していた。甲子園の予選でも投げさせてもらえず、ひたすら走り込み、草むしりの日々。高校卒業後に、野球を辞めようとさえ思っていた黒田は、自宅から関西の大学に進学するつもりだった。
そのことを相談すると母親から衝撃の一言が。「とりあえず、頼むから家から出ていってくれ」
当時の事をこう振り返っている。
「びっくりした。この人は何を言っているんだ、と。いま思えば、母親は息子に自立を促すためにそういう言い方をしたのではないかと思う。」
諦めかけていた野球への思いを後押ししてくれた両親の言葉のおかげで、黒田は関東の大学で野球を続けることを決める。
高校時代に投球で一度も褒められたことがなかった黒田だったが、大学のセレクション当日に「ウチで投げてくれ」と言われた。そして、専修大学で新たな野球人生が始まる。
当時の事をこう振り返っている。
「自分にとって辛かった経験が、時間が経ち環境が変わったことで大きな財産になっていたのだから、人生は分からない。また、環境が変わるというのは大きなチャンスになりえる、それも学んだ」
高校時代は自分の実力不足と周りのレベルが高すぎて、3年間周りにライバル視したり「目標」にする人がいなかった黒田だったが、大学に入りひとつずつ自分の目の前の「目標」を超えていくスタンスを覚えていく。
そして、目の前の目標をひとつひとつクリアしていった黒田は、大学生活でメキメキと力をつけ「プロ野球選手」という言葉が現実になってくる。
大学3年の終わり頃から人里離れた神奈川県伊勢原の練習場にひとりの男性が来るようになっていたのだ。広島東洋カープのスカウトだ。挨拶をするでもなく、ただひたすら練習を見つめるだけに遠方から足しげく通う姿勢に心打たれた黒田は、カープに入団することを決断する。
1年目に1イニングに10失点、2年目は怪我でわずか1勝、3年目は防御率6.78とプロ入り3年間は華々しいデビューというよりプロの洗礼を受けて、思うような活躍ができなかった黒田だった。
このままじゃプロ生活が終わるという4年目で自身初の勝ち越しで9勝6敗という好成績を残し、5年目で恩師、山本浩二監督に出逢う。そこから、1シーズンを大切に目の前の目標をひとつひとつ達成していった結果、カープの不動のエースとしての地位を確立し、オリンピック代表に選出される。
ただ、そこで任されたのは、本来の先発でなく中継ぎだった。
当時の事をこう振り返っている。
外の世界に出たことで客観的に自分を見ることができ、自らの実力のなさに悔しさを覚えた。
そして翌年の2005シーズンは奮起し、15勝で最多勝に。この頃からメジャーリーグを意識し始めていた。
黒田の日本球界時代の成績。※黄色は年間最優秀成績を表す。
参照元;http://nipponbaseball.
2001年、自身初の2ケタ勝利をあげた黒田だったが、その年の9月に母親がガンで倒れる。いろんな人から「強烈」と言わしめた黒田の母親は高校の体育教師だったらしい。とにかく厳しく、悪さをしたら竹刀で殴ったりしたそうだ。
母親のことを黒田はこう振り返る。
「信念を突き通す」ということを学んだ。意を決し、ひとつのことを始めたとしたら、最後の最後までやりきる。自分がその集団に属している以上、そのルールの中で全力を尽くす。
そんな母親が、60歳の若さで他界する。そして、不幸は続きその3年後父親がガンになる。黒田の父親は元プロ野球選手で、父のチームで小、中時代は野球をしていた。
父親のことを黒田はこう振り返る。
「父親が監督するチームで投げられたのは幸せなことだった思う。高校では甲子園を目指し、高いレベルでプレーしたい」と思えたのは、父親の教えがあったからだし、父親がプロ野球選手だった、ということも影響していたのではないか、と思う。
30代前半にして両親を失った黒田。そして黒田は父親が亡くなった2007年のシーズンオフ、アメリカでプレーすることを決断する。
日本の野球と考え方、スタイル、試合数、ボール、球場、あらゆる面で違っているアメリカでの挑戦だった。年間162試合の中で、33歳という年齢での挑戦は、体力的に厳しいものだったが、あらゆるこだわりを捨て、独自の調整方法を編み出しアメリカでの野球スタイルに順応した黒田は、7年間で輝かしい成績を残した。
黒田の米球界時代の成績。※LADはロサンゼルス・ドジャース、NYYはニューヨーク・ヤンキースを表す。
参照元;http://nipponbaseball.
2014年12月末、日本球界に激震が走った。その頃野球界では所属しているヤンキースとの契約が切れた黒田の去就が注目されていた。引退、米球団、日本球界へ復帰などさまざまな憶測が飛び交う中、彼が選択したのは、古巣広島への復帰だった。年俸21億というオファーを断り4億円での復帰を選んだ男の決断は、お金に固執する現代の大人たちに本当に大切なものとはなにかを教えてくれた気がする。
そして彼の決断に賞賛を込めて、多数の商品が発売されている。
米ロサンゼルスで黒田投手とB’z松本が食事をともにし、意気投合したことがきっかけで作られた曲「RED」
彼の考え方がギュッと詰まった一冊。
黒田選手の”野球人生最後の決断”を記念した完全保存版DVD。
この決断に対して、黒田は以下のようなコメントを残している。
カープに決めた理由。それはなんといってもカープファンの思いが大きい。僕自身、カープファンに心を動かしてもらってきた。2006年の横断幕に気持ちが揺さぶられた。今度は僕がカープファンの心を動かす、あのときの恩返しをするのであれば「今だ」というのが僕の決断理由になった。
2006年黒田がカープ残留を決めた理由になった横断幕。
いかがでしょうか。
ここまで、「待ってくれているファンの為に」というアツい想いを持ち、誰からも愛されているアスリートはいないのではなかろうか。
そして、高校時代補欠だった野球部員が、年俸21億の超一流のメジャーリーガーになると誰がイメージしただろう。おそらく、黒田本人もイメージできていなかったはずだ。
彼がこのようなレベルまで到達できた理由は、野球というスポーツに真剣に向き合い、更なる高いレベルを目指し謙虚に努力を続けた結果に違いない。
この記事を読んだ進路に悩むキミも、自分の夢に制限をかけずに、やりたいことに思いっきりチャレンジしてみよう!
普段から流行に敏感で向上心のあるMTRL読者の未来はきっと明るい!!